わが軌跡─経営者となる君へ─

”何事も徹底してやる”精神で地元山形の企業再生に取り組む

愛和建設株式会社
横山正己さん

横山正己さん
愛和建設株式会社 取締役会長

経歴

麻雀に明け暮れた大学時代が基盤をつくった

山形県山形市に本社を置く愛和建設は、プレハブから一般住宅、大型ビルまで多種多様な建築物を扱う総合建設業を営んでいる。1944年創業の東南建設と組立ハウスメーカーのカネフジハウス工業が95年に合併してできた企業だが、実質的な創業者といえるのが現会長の横山正己氏だ。横山氏は長い間、地元の建設業界を支える一方で、再生請負人として経営に行き詰まった数々の企業を救ってきた。しかし、若いときから自分の未来を明確に描いていたわけではないという。

横山氏は地元の高校を卒業後、日本大学法学部に進学したが、当時は学生運動の真っただ中。授業は受けずに仲間と麻雀に明け暮れた。

「勉強はしませんでしたけど、この時期がいまの私の基盤をつくったと思います。新しいことに挑戦する気持ち、自分の力で何かを切り開きたい思いが強くなりましたね」

山形県の経済界には双璧をなす二大企業グループがある。山形新聞と山形交通だ。大学を卒業した横山氏は、地元に戻り山形交通の子会社である日米商事に入社した。ちょうどボーリング場の建設中でそのスタッフとして採用されたが、営業開始までは時間があったため、準備が整うまで系列のガソリンスタンドで勤務することになった。

あるとき、山形交通の社用車が給油にやってきた。後部座席にはのちに社長となる柏倉信幸氏が乗っていたが、横山氏は気にすることもなく、別の車を洗車していた。

「若いときから私はどんなことでも徹底的にやらないと気が済まない。仕事の中身は関係ありませんよ。掃除でも洗車でも全力でやらなければ価値がない。いやいややっても成果なんて出やしませんから」

給油を待つ間、柏倉氏は若き横山氏の仕事ぶりを観察していたのだろう。声をかけてきた。
「君は大学を卒業してここに配属されたんだって」

ガソリンスタンドのマネージャーに聞いたに違いない。
「はい」
「よくがんばるね」
「ありがとうございます」
「大学時代は何をやっていたの?」
「いや、麻雀しかやっていませんでした」

そんなやりとりがあり、柏倉氏は「じゃあ、今度麻雀をするときに付き合ってくれよ」と言い残して去っていった。

後日、横山氏は柏倉氏から本当に呼び出された。場所は料亭だったが、部屋に通されて驚いた。ときの官房長官であった黒金泰美氏、ダイエー創業者の中内功氏、中内氏の腹心の田中本部長が膝を突き合わせていた。

なぜ、そんなメンバーに混じってガソリンスタンド勤務の若者が麻雀をやることになったのか。その背景はこうだ。

72年6月、山形交通が山形市の開発公社から取得した工場跡地に複合商業施設をオープンさせた。キーテナントとして入居したのがダイエー山形店だ。横山氏が料亭に呼び出されたのは、それよりしばらく前のことだった。再開発を前に関係者が打ち合わせをしていたのだろう。

黒金氏は大蔵省を経て、かつて父親の地盤であった山形県から衆議院議員選挙に出馬した。たびたび選挙区に戻り、地元経済界との交流を深めていたが、麻雀卓を囲むことも少なくなかった。しかし、来客も多い。30分、1時間と中座することも多かった。その中継ぎ役として横山氏が呼ばれたのだ。

取引先の社長が急逝 売掛金回収に乗り込む

代表取締役社長の横山隆太氏(左)と横山正己氏。子ども のころから会社や社員と親しませることで円満な事業承継 を実現した。

代表取締役社長の横山隆太氏(左)と
横山正己氏。子どものころから会社や
社員と親しませることで円満な事業承継
を実現した。

それがきっかけで、横山氏は柏倉氏に何かと目を掛けてもらうようになった。あるとき、日本住邸という会社が分譲住宅の事業を始めるから「行ってくれ」と言われた。

同社はカネフジという設立したばかりのハウスメーカーと取引があった。しかし、カネフジは創業から4カ月で社長が亡くなってしまう。日本住邸はすでにカネフジへの売掛金があった。そこで横山氏が回収を担当することになった。

「日本住邸に入社したものの、経営者と合わなかったので辞めようと思っていたのです。ちょうどいいと思い、回収金額の半分をもらう約束で引き受けました」

さっそく遺族を訪れて確認すると、生命保険に加入していたことがわかった。そこからある程を回収できる──。そう思ったのも束の間、保険金の支払いは、5回の分割払いの契約だった。

どうしたものかと困っていたときに、荘内銀行山形支店に勤務している麻雀仲間から、麻雀に誘われた。会場は銀行内。当時の銀行には当直があり、彼が当番のときには横山氏が呼び出され、当直室で麻雀をしていた。

76年に完成したカネフジハウス工業の自社 工場の落成式のあいさつに立つ横山氏の父・ 横山七郎氏。

76年に完成したカネフジハウス工業
の自社工場の落成式のあいさつに
立つ横山氏の父・横山七郎氏。

実はカネフジのメインバンクは荘内銀行山形支店。麻雀卓を囲みながら、カネフジの話になり、気づいたら「追加で運転資金を融資するから君が社長をやれ」という話になっていた。まったく予想外の展開だった。

それでもカネフジの内情を調べてみると、受注は順調に進んでいた。酒田の共同火力発電所の作業宿舎など、大型案件がすでにいくつか決まっていたのだ。結局、横山氏は27歳でカネフジの社長に就任し、すぐに経営者としての手腕を発揮し始めた。

「もちろん、苦労もしたけど、受注は順調で事業も拡大していったね」

76年には自社工場も建設した。このときは獣医であった横山氏の父親も資金援助を惜しまなかった。工場の落成式ではあいさつに立ってもらったが、そのときの父親からのメッセージはいまでも忘れられない。

「“親の手元を離れていま飛び立った。息子をどこまでも飛び立たせてくれ”という内容だったかな。どれだけ資質があるかわからないが、“飛びたいやつは、みんなで扇いで飛ばそう”と。いまでも忘れられない」

夢だったパイロット免許取得。だがバブル崩壊後の苦労も

74年の創業当時の㈱カネフジの社屋。創業4カ月で社長が 急逝し、横山氏が跡を引き継いだ。

74年の創業当時の㈱カネフジの社屋。
創業4カ月で社長が急逝し、
横山氏が跡を引き継いだ。

その後も事業は順調に拡大していった。勉強会にも積極的に参加した。そこで知り合ったのが、後に山形を代表する会社に育った食肉加工会社のヤガイの創業者である谷貝幹夫氏と、スーパーマーケットのヤマザワを創業した山澤進氏だ。

「3人の頭文字をとったワイワイワイ(Y・Y・Y)会をつくって、仕事も遊びも一緒に飛び回ったなあ」

そんな中で「行きたいところに気軽にいけるといいな」との話がでて、セスナ機の購入を考えた。そもそも横山氏は高校を卒業するときに、パイロットを目指し航空大学校の試験を受けていた。

「見事、不合格でしたが、飛行機へのあこがれは捨てきれなかった」

谷貝氏と研修旅行でロサンゼルスへ行ったときに、時間を持て余し「これからラスベガスへ行かないか」との話になった。しかし、車で行くと8時間かかる。それが飛行機をチャーターすれば1時間半ぐらいだという。料金もパイロットとガイド付きで10万円。そのときはじめてセスナ機に乗った。

操縦席をのぞき込むと非常にシンプルだった。

「これなら俺にもできるはずだと思いました」

帰国すると、翌日から仙台空港の「日本フライングサービス」へ通い始めた。1年3カ月でライセンスを取得した。

夢だったパイロットの免許を取得して初めて購入したセスナ 機「サラトガ」。

夢だったパイロットの免許を取得して
初めて購入したセスナ機「サラトガ」。

最初に購入したのが6人乗りの中古セスナ機「サラトガ」。

「移動時間が短縮されたのは大きい。東京まで1時間ちょっとで行けましたから」

約3年後に売却することになるが、1300万円で購入したものが2300万円に値上がりしていた。

その後、全天候で操縦できるライセンスも取得し、冷暖房完備のビジネス機も購入した。また、計器飛行証明も取得したため、さまざまな航空会社からパイロットへの誘いもあったという。

しかし、日本のバブルが崩壊し景気が冷え込むと、事業にも陰りが見え始める。厳しい時代を乗り越えることができたのは、それまで築いてきた人脈があったからだ。

「同世代や後輩は困っているときに助けてくれない。だから、世代を超えて先輩との人脈を持つことが大事ですよ。これは息子にも言っていますけどね」

人脈づくりのため、日ごろから手土産を工夫していた。横山氏は自分で山に入り、山形県内のさまざまなキノコを集めては、それを組み合わせて訪問するときに持参した。重さにすると年間200キロほどになったという。それが実り、苦しいときには「仕事はあるか?」と心配してくれた。

やむを得ずリストラを考えたときにも先輩のアドバイスが役立った。

「リストラの心得は、優秀な社員から切っていくこと。だめな社員は最後まで残せとアドバイスを受けました」

優秀な社員ならすぐに転職先が見つかるが、ダメな社員を辞めさせると、生活ができなくなる恐れがあるからだ。実際に肩たたきをすることはなかったが、優秀な社員が辞めていっても引き留めることはしなかった。

数々の再建案件が持ち込まれる

横山氏の下にはいまでも企業の再建依頼が舞い込む。

横山氏の下にはいまでも企業の
再建依頼が舞い込む。

その間、さまざまな再建依頼が持ち込まれた。建設会社のみならず、歴史のある酒造メーカーの再建も手掛けた。中でも横山氏が一時席を置いた東南建設の再生は印象に残っている。

「社長は多趣味な人だった」と当時を振り返る。時勢を含め経営不振に陥り、横山氏に話が持ち込まれたわけだ。

引き受けるきっかけも異例だ。あるとき、とあるインフラ企業の社長に「茶を飲みに来い」と誘われた。県内でも有数の規模を誇る地場の有力企業だ。行ってみると、県内大手建設会社の社長やメインバンクの上層部、弁護士、会計士が勢ぞろいし、地場の有力代議士も同席していた。

当時の東南建設は多額の負債があり、どうにもならない状況に追い込まれていた。横山氏もさすがに断ったが、あきらめてくれない。やむをえず調べてみると、社長の個人資産があることがわかった。立地の良い場所に自宅があり、かなりの価値がある。これなら、何とかなるかもしれない。そう思って引き受けることにした。結局、自宅はある程度の金額で処分し、負債の半分程度は回収できた。社長には自宅新築資金として処分した金額の一部を渡した。

借金は残ったが、返済は続けられる額だった。さらに350坪の社屋は相当な価値があった。当時は実勢価格で坪120万円だったから、万が一のときには売却すれば、借金は返済できるはずだった。

「社長も“会社を生かしてくれるなら何でも言う通りにする”という感じだった。経営者としては失格だったが、人は良かったからうまくいったようなものです」

結果、東南建設とカネフジハウス工業が合併して愛和建設が誕生したわけだ。

数々の企業を再建した横山氏だが、どんな会社でも再建できるわけではない。

「第一は経営者の人柄」という。社長が再建をサポートしてくれなければうまくいかないからだ。

横山氏は17年に長男の横山隆太氏に社長の座をゆずり、現在は会長として会社の成長を見守っている。最近では後継者問題に悩む経営者も多いが、同社の承継は非常にスムーズだったという。その秘訣は何か。

「子どものころから、いかに会社に馴染ませておくかが大事ですよ」

横山氏は社員とも家族ぐるみの交流を続けてきた。お盆やお正月の会社でのイベント実施や、社員が結婚するときには仲人も引き受けた。イベントには横山氏の家族も参加するから、隆太氏も社員からかわいがられた。そうしているうちに父親の仕事を理解し、徐々に引き継ぐ意思を固めていったわけだ。

後継者は社長が育てるものではなく、家族や社員など会社に関わるさまざまな人が育てていくもの。それが会社を継続していく力になるのかもしれない。

愛和建設株式会社
主な事業内容:
建設に関わる工事の一式、プレハブ組立ハウスの製造・販売、建築資材の開発・製造・販売
本社所在地:
山形県山形市
社長:
横山隆太
設立:
1944年
従業員数:
44名

機関紙そだとう202号記事から転載

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