SBIC東京中小企業投資育成株式会社

特注品のプラスチック精密加工専業として国内有数の規模を誇る

愛社精神を育てるには
まず会社が「愛社員精神」を持つべし

株式会社ミヤザキ

プラスチック製品は身の回りに多いが、ミヤザキの手がけるプラスチック製品は加工精度が0.01ミリという精密部品で、半導体製造装置などの部品として使われている。
バブル崩壊後に経営危機に陥った同社は、山之上道廣社長の率先垂範の下、日本を代表する企業に変身した。

毎月約8000ロット受注 良品率は99.9% 最短で即日発送の短納期

山之上道廣社長
1951年、宮崎県小林市に生まれ、
地元の高等学校を卒業後埼玉県内の
樹脂販売会社に就職。
1973年、プラスチック製品の組み
立てをするため宮崎商会を創業。
1976年にミヤザキを設立、
代表取締役に就任。

「この部品を電灯に透かして見てください。髪の毛よりも細い穴がびっしり並んでいるでしょう」
埼玉県日高市に本社を置くミヤザキの山之上道廣社長(67歳)は、そう言って小さなプラスチック部品を見せてくれた。日本人の髪の太さは平均0.08ミリといわれる。ミヤザキはそれよりさらに微細な0.01ミリの精度でプラスチック製品を加工する技術を持つ、日本でも有数の専業会社だ。 
半導体製造装置や自動車・電子機器など精密部品をつくり出す先端設備製造装置(マザーマシン)は、金属部品だけで構成されているわけではない。
エンジニアリング・プラスチックと呼ばれる強度や耐熱性に優れたプラスチックの精密部品が多く使われている。
射出成形では高い寸法精度を出すことができない製品や、コストの問題で金型を作ることのできない製品は、プラスチックの板や丸棒を切削、ドリル、曲げ、溶接、接着などの技術を駆使して精密加工を行う必要がある。
だが、プラスチックは金属よりも熱に弱く膨張・収縮しやすいので加工が難しい。山之上社長は「プラスチック加工の会社は全国で500社ほどあるが、95%は10人前後の会社で高精度の加工は手がけていない」と語る。
明確な統計はないが、従業員が100人を超える規模で精密プラスチックの加工を行う専門企業は全国でも数えるほどしかないと思われる。
「プラスチックの精密加工は技術者を育てるのに手間がかかり、設備投資も資金が必要ですから、なかなか事業を拡大できないのです」
ミヤザキは、量産品は一切手がけず、特注品の小ロット加工が専門だ。1個から100個未満が大半で、毎月8000種類程を受注している。高品質、短納期が売りで、出荷時の良品率は99.9%、他社が1カ月かかるところを7~10日で仕上げる。最短では即日発送だ。
半導体製造装置向けの部品が8割近くを占め、他に電機、食品、医療関連機器の部品などがある。取引先は200社以上で、東京エレクトロン、日立製作所、パナソニックなど大手が多い。
従業員が170人を超えるにもかかわらず、営業担当は4人しかおらず、インターネット等を通じて注文が入る。
注文は増え続けており、埼玉県の本社工場および宮崎県小林市にある5工場がフル稼働状態だ。この5年間、毎年約30%の増収増益が続き、今期は24億円の売上げを見込む。営業利益率も40%と業界で群を抜いて高い。

チームワークの 「ミヤザキ方式」で機械は常にフル稼働

ミヤザキの好調の秘訣は、技術者の能力を引き出す体制づくりと積極的な設備投資にある。現在、本社工場に15人、九州5工場に51人の技術者を抱えているが、基本的に1人の技術者が4~5の工作機械を担当し、各技術者にはアシスタントがつく。
技術者が設計図からプログラミングして工作機械にデータを入れ、加工が始まると、アシスタントがその機械を監視し、トラブルへの対処や、ワーク(加工対象)の位置変更などを行う。
というのも、加工が複雑なワークでは機械に一度セッティングしたら終わりではなく、何工程もセッティングし直す必要があるからだ。切削の順番なども重要なノウハウの一つだ。
技術者はいったん加工が始まればアシスタントに任せることができるので、ベテランになれば3台以上の機械を同時に操って加工できる。
また、切削後のバリ取りや仕上げなど、1つのワークに対して2~3人のバックアップ部隊がいる。通常は1人の技術者が1台の機械を担当して仕事を完結するので、その間に機械が稼働しない遊びの時間が多くなるが、「ミヤザキ方式」では機械の遊ぶ暇がない。
さらに、3交代制で24時間稼働させるので、単純計算でも8時間勤務の他社より3倍の生産性を持っている。
この生産方法を実現するために、同じ機種の工作機を多数購入し、合計120台以上の設備を用意している。機種を統一すれば、複数の技術者で効率的に使用することができ、特定のメンバーに頼らずにすむ。また、工場には使用頻度の高い材料20種類以上を常備し、調達の無駄な時間を省いている。
2010年以降、宮崎県小林市で第2から第5工場を新設、18年3月には第5工場が稼働し、大型パーツの切削加工も可能となった。これで、微細から大型まであらゆるサイズの製品を手がけるオールインワンメーカーとなった。
 
13年には売上高が10億円にもかかわらず6億円も投資したことがあり、11年以降25億円以上の設備投資をするなど、山之上社長は細心の計算をしながらも行動は大胆だ。

愛社精神を育てるにはまず会社が「愛社員精神」を持つべし

九州工場の大会議室にて、伝統となった朝の勉強会の風景。

ミヤザキの企業力を支えているのは技術力を持った社員達だ。だが、プラスチック精密加工の技能を習得するには少なくとも5年以上かかる。
「そのためには当社で長く働いてもらいたい。それに会社も、この会社でずっと働きたいという愛社精神を持っている社員がいないと成長しません。社員に愛社精神を持ってもらうためには、その前に会社が社員を愛する『愛社員精神』が必要です」
こう考えた山之上社長は、社員の職場環境と生活環境の改善に取り組んできた。工場は、会議室やトイレは高級ホテル並み。フロアも製造現場と思えないきれいさで、食堂で提供される食事はすべて無料だ。
給料は首都圏並みの水準で、経常利益の2割を決算賞与として年間4回に分けて還元している。主任クラスでは年間200万円以上、社歴の浅い一般社員でも100万円以上になるという。
さらに社員のマイホーム取得も支援する。基本的に勤務3年以上で結婚している社員には、住宅ローンの頭金を「あるとき払い」で援助する。対象者のほとんどは現在、家持ちだという。
こうした処遇もあり、退職する社員はほとんどいない。いないどころか、工場のある宮崎県小林市では、ミヤザキに入社したいという応募者が引きも切らない。主に社会経験が数年ある中途社員を採用しているが、そのうちの多くが都市圏の大手企業などで働いていたUターン組だ。

切削加工を行う技術者は1人で3台以上の
機械を同時に操作し、2〜3人がアシスタント
として加工を分担する体制で稼働に無駄がない
(写真上は九州第1、下は第3工場)。

「人口4〜5万人の小林市ではこれまで就職先が少なく、故郷に帰ってきたい人も帰ってこられないケースがあった。その雇用には多少なりとも貢献していると思います。彼らはみな優秀で、当社にとって重要な戦力となっています」
そう語る山之上社長の生まれも小林市だ。地元の高校を卒業後、樹脂販売会社の営業として働いていたが、あるきっかけがあって、1973年に22歳で独立してプラスチック製品の組み立てを始めた。そのいきさつが面白い。
山之上社長は中学2年生の頃、名古屋にいた兄のもとへ遊びに行った際、たまたま電車で乗り合わせた若い女性が車内で写真を撮り郵送してくれた。そのまま時は過ぎ、22歳のとき、ふとアルバムを見ると封筒が滑り落ちた。
それはかつて送ってもらった写真だった。礼状すら書かなかったと悔やんだ山之上青年は、その住所へ連絡を入れると、その女性はすでに結婚して家を出ていた。事情を知った親から連絡先を聞いて女性の家へお礼に行くと、夫婦でプラスチックを扱う会社を経営しており、「独立したら仕事を回す」と言ってくれたのだ。
「勤めていた会社は同族会社で出世の見込みもなく、それでチャンスだと思い独立したのです」

大量加工から小ロットでも単価の高い特殊加工へシフト

切削加工を行う技術者は1人で3台以上の
機械を同時に操作し、2〜3人が
アシスタントとして加工を分担する体制で
稼働に無駄がない(写真上は九州第1、下は第3工場)。

山之上社長は、なけなしの貯金をはたいて材料を買うと、アパートで妻と一緒に商売を始めた。仕事は約束通り回してもらったが、加工する機械がない。そこで、知り合いの会社の社長へ機械を借りに頼みに行ったというのだから度胸がある。
最初は断られたが、ねばって何とか借りることができた。夜の8時から夜中まで作業し、終わった後は工場全体をきれいに大掃除した。そんなことを3回ほど繰り返すと、社長がしばらくは使っていいよと合い鍵を作ってくれた。
3年間ほどこうした生活を送ったが加工賃は安く、いくら頑張っても利益が出なかった。
1976年に一念発起し、埼玉県狭山市に工場を建て、社名をミヤザキとした。もちろん、故郷の宮崎への思いを込めてだ。社員も5人ほどに増え、大量加工を手がけるようになったが、単価が安くてやはり儲からない。
「そのとき、以前いた会社で付き合っていた加工会社のことを思い出しました。小ロットだが難しい加工を、高い料金で引き受けていたのです。うちもそうするしかないと決断しました」
 
86年に現在の日高市へ本社と工場を移し、思い切って特殊精密加工に舵を切った。金融機関に融資を頼むと厳しく査定されたが、山之上社長の仕事ぶりと計画を評価し、2億円を貸してくれた。
もちろん、すぐに特殊加工に移行できたわけではない。じわじわと少しずつ増やしていったが、当初はいくら作っても不良が出てしまい、取引先に納品したばかりの製品を目の前でへし折られたこともあった。それでも少しずつ技術が高まり、仕事も増えていった。それを後押ししたのがバブル景気だ。
注文が増え、人を増やそうとしたが、埼玉県ではいくら募集しても集まらない。そこで着目したのが故郷の宮崎だった。当初は、小林市の隣のえびの市に用地を見つけたが、地主が承諾せず、92年に小林市で工場を新設した。
「ほとんど運ですが、よい結果になりました。他に企業がない小林市に工場を持っていったことで、うまく採用ができるようになったのです。えびの市だったら採用で苦戦したと思います」
ところが、竣工とほぼ同時にバブルが崩壊。売上げが半減し、投資が裏目に出て経営危機に陥った。だが、社員に危機感はなく、やる気なさげに無駄話をしながら残業代をつけていた。
「それを見て、注文が急減した理由もわかりました。あらためて社内を見直すと、不良、納期遅れ、社員の遅刻・欠勤だらけ。なにより私自身が始業時間(8時半)に遅れ9時に来て、その
ままゴルフに出かける始末で、会社の体をなしていませんでした」
山之上社長は自ら会社の改革を決意。朝7時に出社し、整理整頓と社員への明るい挨拶を始めた。同時に7時45分から、30分間の勉強会を開始。やる気のあった若手社員を1人誘い、聞く力と話す力を身につける場として、毎朝行った。
半年も経つと、8人の社員が参加し、残る8人は会社を辞めていった。ここから会社がじわじわとよくなっていく。
根本から体質が変わったのだ。この毎日の勉強会も26年目に入っている。
今回の優秀経営者顕彰についても、「名誉であり、社員の励みになる」とあくまでも社員目線だ。ミヤザキは日本一を超えて、いま世界一のプラスチック精密加工会社を目指している

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