SBIC東京中小企業投資育成株式会社

わが軌跡 ─経営者となる君へ─

会社はオーナーのものではない!
社員の幸せのためにある

株式会社シービージャパン代表取締役会長 兼 CEO 青木 宏さん

ガラス張りの経営で 社員のための組織作り

青木会長。
社名は「変化」(Change)と「基本」(Basic)からとった

カリスマ創業者の前に出ると、社員はビクビクして小さくなるのはよく見る風景だが、シービージャパン(以下、シービー)は違う。創業者で会長の青木宏(70歳)の前でも社員は軽口をたたき、みな、大笑いしている。
「あれほどわかりやすい人はいない。言いたいことを言うが、いつの間にかみんなが好きになっている」と常務の白石浩二は青木を評する。

取引先の担当者がシービーに入社したいと年に2、3人は言ってくるし、現にそうして転職してきた社員も多い。創業時から経営はガラス張りで、風通しのよい、社員のための組織を青木は作り上げてきた。
「昔は嫌われ者でね、仕事ができない人間は馬鹿にするし、相手に合わせることはできないし、言葉遣いも荒くて、触れば斬られるような雰囲気で『カミソリ』と陰口も言われました」と青木はニコニコ笑いながら話す。

今の青木は真逆で、どんな人にも好かれる。初対面でも旧知の友のように付き合うので、誰もが青木を慕う。
「嫌いな人なんていない。裏切られたこともあるが、悪いことは忘れていいことしか覚えていないよ」と屈託がない。

シービーは生活関連用品の企画・販売会社で、取扱品目は1400SKU(色柄・サイズなども含めたアイテム数)に達し、年間370SKUもの新商品を投入している。企画と設計、デザインを同社が行い、生産は海外のメーカーに委託している。

分野ごとにブランド名が異なり、これまで70万本を出荷するステンレスボトルは「ミディ」、吸水性の高い人気のタオルが「カラリ」、薄型で汁漏れがないと最近大ヒットした弁当箱フードマンは「ディーエスケーピグ」、このほか食器、調理器具、美容品、生活家電、インテリアなど幅広い品揃えだ。アイデアがあり、高すぎず、安すぎず、品質が高いことが人気の秘密である。

同社製品のファンも多く、前述のフードマンという弁当箱は、当初男性ビジネスパーソン向けに発売したが、SNSで盛り上がり、その要望に応えて女性用の小さいサイズを発売したところ、これも支持され、累計で20万個を出荷するヒットとなった。

祖父の時代は日本橋の 洋傘問屋で財をなす

宏和入社後、初の海外出張でプリンスホテルにて前泊

青木は1947(昭和22)年、喜次郎と昌子の次男として生まれた。

明治期に祖父の青木弁次郎は日本橋で日本初の洋傘問屋である青弁商店を創業し、財をなした。「なんである、アイデアル」という植木等のテレビCMでかつて知られた洋傘メーカーのアイデアルは、青弁商店で働いていた元番頭が創業したという。

しかし、弁次郎の後継ぎ夫婦は息子を残して早くに亡くなったため、丁稚奉公していた喜次郎が弁次郎と養子縁組し、昌子とともに残された子供を引き取って青弁商店を継いだ。その後、3人の男の子が生まれ、4人兄弟として育った。青木は長兄と血のつながりがないことを高校入学後に初めて知った。

戦前の青木家は裕福で、日本橋の店の他、杉並区荻窪と墨田区太平にも土地・屋敷を持っていた。戦時中は満州鉄道に多額の出資をした功績から召集を免れた。母の昌子の実家も裕福で、女中付きで生活していたという。

だが、終戦とともに満鉄の株は紙切れとなり、青弁商店も立ちゆかず、倒産に追いこまれた。店や墨田の土地も失い、荻窪の屋敷だけが残された。  喜次郎は再建に取り組んだが、都度重なる事業の失敗で無一文となり、青木が保育園に通う頃には、中野区の木造賃貸アパートに移り、2間に家族6人で暮らした。トイレ・台所も共同だったという。
「私が覚えているのはそこからで、金持ち時代はまったく知りません。2歳年上の次兄が荻窪の屋敷で芝生にレールを敷き、ドイツ製の機関車で遊んでいる写真が残っていましたよ」と笑う。

青木の幼少時代は落ち着きのない、手に負えない子供だった。
「今ならADHD(注意欠陥・多動性障害)と診断されるような子供で、近所の子供たちを集めてガキ大将ぶりを発揮し、遊び回っていました。ともかく負けず嫌いでしたね。小学校時代、兄が上級生にいじめられたと聞き、仕返しに行って、ボコボコにされたこともあります」

昌子は嫁入り時に相当な着物と桐箪笥を持参したが、生活苦から着物を切り売りせざるを得なかった。お嬢様育ちだったが手先は器用で、自ら裁縫や編み物で子供達のズボンやセーター、下着までも作り、子供たちにひもじい思いをさせなかった。
「そのせいか、貧乏したという記憶がないですね。完全なマザコンで、結婚したときに母が作った下着の方がいい、と言って妻にあきれられました」

親友の初仲人

一方、父との相性は悪く、青木とはまともに話したことがないまま、76歳で他界した。喜次郎は次兄を一緒によく連れて歩いたが、青木にはそうした想い出がない。
末っ子の弟が事故によって6歳で亡くなると、母は心労から体調を崩し、腕白小学生だった青木に手を焼いて、父の知人の石橋家へ預けられた。

小学校6年の時、父は大学進学を考えて、埼玉県浦和市(現さいたま市)に住む母方の姉の武川家へ青木を養子に出し、市立岸中学校に入学させた。

その当時、青木家は戸田市に住んでいたが、越境入学は許されていなかったのだ。岸中学校は浦和高校への進学率が今でも高く、そこから東京大学を狙うのが進学コースだった。
子は親の思い通りにならないのが世の常で、青木は東大ではなく中央大学附属高校に進学し、そのまま1965年に中央大学経済学部へ入学した。

ところが、当時は全共闘運動が盛んなときで、中央大学でも66年に学費値上げ反対闘争が起こり、バリケード封鎖された。ロックアウト状態が続く大学に青木は嫌気がさし、3年生の時に中退する。

学生時代の今は亡き無二の親友と、四国旅行で

そして、小学校時代に世話になった石橋が経営するストーブメーカーのミンク工業に入社。当時、父の喜次郎も同社で常務を務めていた。

青木は設計技術課に配属され金型、板金、めっきなどを学んだ。入社2年目に、日本規格協会でJIS(日本工業規格)認定員の資格取得の研修を受けたことは後に役立った。あるとき、その研修をさぼって残業していた青木を見て、社長の石橋は怒鳴りつけた。
「お前にとって今、大切なのは勉強だ。すぐに研修に行け!」

このとき青木は残業してなぜ怒られるのか分からなかったが、経営者となったときに若手社員の育成がどれほど大切か痛感し、石橋の親心を知った。

恩を受けたミンク工業は残念ながら、入社4年目に倒産してしまう。債権者が押し寄せ、石橋ら経営陣がつるし上げられ、怒声が飛び交う光景を青木は真っ青になって見ているしかなかった。
「倒産は社員や経営者だけでなく、取引先など関わった人たちの人生も変えてしまう社会悪だと痛感しました」

青木はその後、ミンク工業時代の上司の紹介で日用雑貨卸売業の宏和に1972年、25歳で入社した。当時、社員が25人ほどで売上げは8億円程度だった。

ここで、青木の営業の才能が開花する。当時、同社は東北6県のデパートやスーパーを得意先としていたが、青木は東北へ行くのが嫌で、関東で新規を開拓すると宣言し、大手量販店やホームセンターなどから注文を次々と獲得。

年後には青木が開拓した関東の顧客による売上げが全体の8割を占めるようになり、全社売上げも大きく伸びた。社長は東北での営業活動を中止するとともに、青木を取締役営業本部長に任命する。

弱冠35歳で、青木もテングになっていたのだろう。仕事のできない、あるいは遅い部下を見下し、年上の部下も怒鳴った。思い通りにならないと周囲をしかりつけ、触ると斬られそうだから「カミソリ青木」と呼ばれる。倉庫では生意気な態度から「バカ殿」と陰口をたたかれていた。

同社では社長夫妻に特別に目を掛けられ、高価な車載電話を使わせてもらったり、社長の高級車を営業に使ったり、海外出張もビジネスクラスに乗るなどやりたい放題だった。
「自分はそれだけ言える実績を上げてきた。仕事ができない人間とは会話もしたくない。わがまま言ってもかまわないじゃないか、と思っていました」

だが、ある日出社して仰天した。机がひっくり返り、書類が散乱していた。泥棒でも入ったのかと思ったが、それは青木の机だけだった。実は、部下7人が血判状を書き、青木の解任要求を社長に突きつけたのだった。

創業から7年間は資金調達で休みもなし

転職組を含め若い社員が集う。
社内結婚も多いという

社長は稼ぎ頭の青木を手放すわけにはいかない。卸売業は人間関係で成り立つ部分が大きく、青木が辞めれば顧客を失う恐れがあった。

社長は部下達に対して「私が任命した青木が気に入らないのなら、君たちが辞めろ」と明言し、騒動は収まった。

青木はこの事件で人との関係づくりを見直し、他者を尊重することを自問自答した。その後、部下とは積極的に話し、酒や食事をともにし、半年ほどである程度の理解を得ることができた。
「相手と同じ目線で付き合わなければ相手の気持ちが分からない、と気づき、それからは上から目線で人を見るようなことはやめました」

1994年、青木が47歳の時、会社は売上げが70億円を突破、社員も40人と増えていた。だが、社長の体調が悪化し、仙台に本社を置く東北最大の石油・LPガス卸売りで東証一部上場企業のカメイに同年、会社を売却することになった。

青木はこのことでショックは受けなかったが、自分が育ててきたと自負を持っていても、やはり「オーナー会社は社長の一存で決まる」のだと痛感し、そしてそれはオーナー経営者の身勝手だと思うようになった。

青木にはすでに転職先の当てがあったが、カメイの会長に「君がやらなければ会社はどうなる? 社員や取引先のためにも続けてくれ」と説得され、仕方なく期限付きで、社長代行として宏和の常務に就任した。結果的にはこの期間でバランスシートやキャッシュフローなど財務と経営を勉強することができた。

1999年、カメイ側の了解を得て独立し、一緒に退職した仲間など4人でシービーを創業。オフィスは足立区のマンションの一室だった。青木は52歳になっていた。

その際、青木は「会社をオーナー化しない」「ソーシャルカンパニーを目指す」という2点を方針とした。会社はオーナーのものではなく、社員を幸せにするためにある。そのことを守るため、オーナーは株式を25%以上持たず、社員持ち株制度を推進した。会社の駐車場の駐車料金も払うなど公私混同を断ち切り、今も子供を含め親族を一切会社に入れていない。

2018年8月末に竣工する新社屋のイメージ

創業当初から日用品のファブレスメーカーを目指したものの、簡単にはできない。そこで、まずはメーカーに代わって営業から請求書の発行までを代行するビジネスから始めた。そのためにはシステム投資を行う必要があるが、金融機関は相手にしてくれない。そこで前社時代から付き合いのあったタイエイジャパンに立て替えをお願いし、その関係会社として出発した。

死にものぐるいで働き、1年後には立て替え費用を返済、2000年に独立してシービーを設立した。

メーカーとして最初のヒット商品がOEMで始めた木製ポータブルトイレの生産だった。
「事業が軌道に乗るほど運転資金が枯渇し銀行に日参。個人保証と担保を求められた上、融資条件も悪い。創業から7年間は起きてもおカネ、寝てもおカネの心配で休む暇がありませんでした。今では信用されて、個人保証も担保もなく、信じられないほど有利な条件になりました」

海外メーカーに委託する中で、華僑との付き合いも深まった。「人種とか国・地域を考えて人と付き合ったことがない」という青木の人徳のせいか、台湾出身の華僑と家族ぐるみの付き合いが始まり、そのネットワークの恩恵も受けた。
「人と社員には恵まれましたね。周囲に助けてもらって今日がある。感謝しかありません」

社会に恩返しするため、過去10年間は本社のある足立区に毎年1000万円以上を寄付している。東日本大震災など被災地・被災者への支援も積極的に行ってきた。

リタイア後は農業の支援に力を入れたいと栃木県に土地を買った。高齢者の就労の場にもしたいと意欲を見せる。青木のことだから、たちまち農家とのネットワークを築き、日本の農業再建の道筋をつけていくことだろう。

Profile

主な事業内容:生活関連用品の企画・販売
本社所在地 :東京都足立区
社 長   :樋口圭介
資本金   :9900万円
設 立   :2000年
従業員   :38名
URL   :http://www.cb-j.com/

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